昭和47年12月28日 朝の御理解
中村良一
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ。それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
病人や代々難儀の続く人がと、これは、本当にあの、難儀な人。そういうところがありますよね。本当に、あちらの家は巡りが深いのだろうと。特別に、特に、病人や、代々難儀の続く人。神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、もうその家には、井戸がえをしなければならない時期が来てる。もう本当に、難儀な病気、人のせんような病気。しかも、それが続くと言うこと。そこに本気で、巡りの自覚というものが出来なければならん。
今日、私は、だから、そこんところを、まぁだ、井戸がえをするには、間があるという様な人達も、だから、あると思うですね。信心して、本当に、ただ、おかげおかげと、おかげを、いわゆる御利益を受けて行く人もあるかと思うと。信心、本当にしても、あの人が、どうして、あれだけの信心しておられるのに、おかげが受けられんだろうかという様な人もありますのは、やはり、病人や、代々難儀の続く人の部類にあるのだと、私は、まず自覚しなければならんと思いますね。というて、信心を、だらだらとした信心が続けてられておると言うだけではいけないんだ。
最後のところに、根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう、元気な心で信心せよというのですから。まず、心が、元気な心でなからなければならない。繁盛するようというところに、陰気なものではなくて、陽気な感じ、陽気な信心。天理教あたりが、陽気暮らしという事なんかを言うことは、これは、おかげを頂く、一つの真理があると思うですね。歌の様なお経文を上げたり、踊りの様な手振り身振りをしながら拝むんですね。らしいですね、私は見た事ないけど。太鼓やら、拍子木やらに合わせて、そして、身振り手振りしながら拝む。どんなに、心が滅入っておっても、やはり心が陽気になる。やはりあの、踊り宗教なんかもそうです。一生懸命、こうやって踊っておるうちに、心の憂さというかね。そういうものが散じてしまう。そこに、やはり、おかげを受ける一つの真理というものがあると思うですね。教祖は、そういう様な意味の事で、御教え下さってないようですね。けども、今日、私は、ここのところの、まめで繁盛するよう、元気な心で信心せよと仰るところに、何か、そんなものを感ずるですね。まめで一心に願えという。まめで繁盛 するよう、元気な心でと。私共の、一番難儀魂魄の時代。もう本当に、鍋の中ども見たら、みんな、びっくりするだろうといった様なものしか頂けない様な時代でありましても。しかも、家には、妹の子が、胸の病気で休んでおりましたから。病人が居る。もう、どこから言うてもです。もう本当に、陰気臭いような家庭でなかったかと思うんですけれども。私の方には、そういう時代でも、笑い声が絶えた事が無かったですね。もう、いよいよ、ぎりぎりの時なんかは、私の父がね、まぁ私を前にしてから申しました。もうとにかく、私の父は、言う人じゃないです。もう何にも言いません。どんなに歯がゆうても、父はもう、黙って、何にも言う人じゃないですけれども、もう、いよいよ、ぎりぎりの時だったんですよね。お商売をやめてしまって、破れた靴を履いて、破れた服を着て、そして、もう、あっちやこっち、信心のお導きに回ったり、お話しに回ったりしておる時分ですから。ですから、商売しきらんのなら、仕事しきらんのなら仕方がないけれども。商売しようと思えば出来る、言うなら、腕を持ちながら、今の様な状態であったらね。私達はもう、お四国参りなっとんせにゃ仕様がないが、あんた、どげん考えとるかと言うて、父が申しました事があります。もう、これが、一番、ぎりぎりの時じゃなかったじゃかと思います。お四国参りという事は、お遍路さんにでもなって、私だん、その、貰うてさるかんならん、首に袋をかけんならんという意味なんです。私はその、もう本当に、一生懸命の、父のそういう、それを聞きながらね。もう、心の底から、込み上げてくるものはね、笑いでしたよ。本当に。まぁ私は、あれが、一番最高潮だったと思うですね。父が、そういうくらいですから。ところがね、それに対して、どうこうと一つも言うのじゃないけれども、心からもう、心から込み上げてくるんです、笑いが。いわゆる、一心に、まめで繁盛するよう、元気な心で信心が出来ておったからだと思うですね。もう、先の事が分からんもんじゃからという気持ちなんです。もう繁盛する事は、もおう目に見えとる。そういう感じなんです。もう心から、もう押さえとっても、堪えられんような笑いが、もうあんたばっかりは、こげな大事な話しよっ時に笑うちからち。さぁ、御祈念御祈念と言うて、母と父と私と三人で、御神前に出て御祈念をさせて貰う。もうその、御祈念についてくる。一生懸命、御祈念をして、その後に、有難い御理解を頂く。それでまた、ほんなら、まぁ一頑張りという、もう一頑張りというところで、私は、おかげを頂いた様に思うです。
もう、百という、その一つ手前は、九十九です。九十九までもいっとるけん、ここで回り右したら、百にはなれる筈はありません。もう一つ、もう一押しというところでです。私共も、もちろん、巡りが深かったと思います。いうなら、長いこと、人の好かん、言うなら、病人が、家には寝とる。うちには、それこそ、鍋の中どもあくるなら、びっくりする、こげなもんが食べられるだろうかといった様な食事。私はもちろん、一食修行でしたけれども。そういう様な時代にです。とにかく、私の家には、笑いが絶えることが無かった。そういう、ぎりぎりな、深刻な、もういうならば、お芝居でども言うならですね。愁嘆場というところがあります。嘆き悲しむ場という事です。もう、いよいよその、嘆き悲しまなければならない様な場にです。父が、そういう、私も涙を流して、本当に、私が甲斐性が無いもんだから、どうもすみませんという様な事だったら、どうだろうか。もうそれこそ、しゅんとしてしまう事でしょう。そるきんち言うて、ほんなら、わざと作って笑うと言う様なのは、心の底から、込み上げてくるんだもん、笑いが。そういうね、信心をさせて頂かなければならん。
宗教は、アヘンなりと言うた人がある。ただね、もうとにかく苦しまぎれに、ただ、苦しいから、ただ、信心が、何とかかんとか続いておるといった様な、陰気な信心はです。参らにゃ、もう気持ちが悪いといった様な、私は信心は、確かに、宗教アヘンだと言われても仕方がないと思うです。それこそ、としょに引かれる羊の様な感じです。銀行に金借りに行くような感じです。信心は、何処までもね、もう、銀行に金預けげ行きよるという気持ちの信心でなからにゃ駄目です。お徳を積み上げよるんだという信心でなからなきゃ駄目です。はぁ断られたらどうするじゃろうか。どげん言うちから借ろうか。そういう信心じゃ駄目です。それこそ、銀行に、金預けげ行きよるという様な気持で、信心は、させて貰う事がです、私は、一心に、まめで繁盛する様という事です。父が、どんなに、そういう、普通で言うなら、そういう時だけを愁嘆場というのであろう。けれども、心の底から湧いてくるものは、笑いであったということ。さぁ御祈念、御祈念というて、御祈念をさせて貰う。そして、御理解を頂く。ほんなら、もう一頑張り、その一頑張りというところに、私は、百に到達したような思いが、今日は、しきりに、その事を思います。病人や、代々難儀の続く人がと、病人や、代々難儀の続く、そういう時です。いわゆる、井戸替えの時期の来ておるというお家なんです。には、どうでも、そういう、生き生きとした信心をさせて貰わなければなりません。
今日、私、こんな、ままにならぬと、まま鉢投げりゃ、そこらあたりはままだらけ。ままにならぬと、まま鉢投げりゃ、そこらあたりはままだらけ。もう、自分方は駄目じゃろうか。もうおかげは、とても私段出来んというて、信心を投げればです。そりゃ、一生懸命参りよったつに、ちょっと参らんと、ちょっと楽になるです。ままだらけです。信心せんでん、おかげ頂くたいち言うごたる。それは、そういう、確かにものがありますけれども。それは、お粗末になるおかげです。ままにならぬと、まま鉢投げりゃ、そこらあたりはままだらけです。おかげだらけという意味じゃなくてです。お粗末になるおかげです。本当のおかげにはならんのです。そこで、私達はです、どのような場合であっても、いうならば、神の声を聞き続けさせてもらえるほどしの信心がです、為されて行かなければ、今日、私が申します様な、そういう、ぎりぎりの時に、愁嘆場といった様な時にです。笑いが込み上げてくるような信心は生まれてこないです。というて、ただただ、信心辛抱というて、長く信心が続けられておってもです。それこそ、銀行に金借り行くような感じの信心じゃ駄目です。銀行に、金預けげ行っとるという様な、生き生きとした、楽しみ、喜びの信心。私は、御教えというものは、本当に、天地の底に流れる、生きたリズムだと思うです、教えというのは。いうなら、まぁ天地の真理なのです。ですから、それを、直に感じれれる信心をです。私共が頂かなきゃいけん。いよいよ本気で、御教えに取り組む。いよいよ本気で、御教えを行じ抜かせて頂くという。そこからです、これが天地のリズムでもあろうかと思われる様なです。こりゃ、みなさんが、合楽で、特に体験してお出でられる事だとこう思うです。神様が、もの言うて下さらんばっかりに、いろんな働き、神様の働きを、そこに身近に感ずる。そういう信心が出来とらなければ、ただ、ほんなら、私がです、父がそういう風に申しました時に。私の心の中に、もう先が見えておるというのはです。天地のリズムを聞き続け、しかもその、天地のリズムに乗った信心生活をしておったから、その時に、笑いが込み上げてくるようなおかげになっておったんだとこう思うです。それが、言うなら最後、その一押し。そこから、いうならば、清水になるまでの井戸さらえが出来たような感じが致します。汲んでも汲んでも、後はまた、綺麗な水が頂けれるというおかげです。それには、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心する。
途中で止める。ままにならぬとまま鉢投げりゃ、そこらあたりはままだらけにならん様な、一つ、おかげを頂かせて貰うて、天地の、いうならば、リズムを聞き続け、そのリズムに乗っての信心生活が出来る。そこから、いわば、朗らかな心も、明るい心も、もうおかげ間近と、それは、苦しいことが大きければ大きいだけというのはね、その巡りもやはり、苦しんでおる時なんです。自分が苦しい時には、巡りも苦しんでおる時です。何時も申します様に、正と邪というものがあるならばです。同じ力のものであっても、正が勝たなければならないという法則があるのです。いわば、徳の力が五十、巡りの力が五十。徳を正とし、巡りを邪とするならです。おなじ、五十と五十の力ならば、絶対、徳の方が勝たなければならんようになっとるです。けれどもです、巡りが五十、ほんなら、徳の方は四十五だというなら、幾ら徳だって、これ正しいと言うたって、これが負けるのは当たり前です。ですから、今、私が、苦しい時には、巡りももうおへとへとだと思わせて貰わなきゃならん。それでです、それを、ただ、やっとかっとではなくてです。朗らかに明るい、一心に、まめで繁盛するよう、元気な心で信心させて貰うという所からです。もうあれが、九十九の時であったであろうか。あの、一つの、いわば、押して行く信心がです。しかもそれは、明るく朗らかにですね。そこを通り越えさせて頂く時に、百に到達というおかげになっておるのです。ここんところを、一つ、おかげ頂かせて貰う。今日は、ここだけでも覚えとって下さい。ままにならぬと、まま鉢投げりゃ、そこらあたりはままだらけにならん様な、おかげを頂かにゃならんと思うですね。どうぞ。